ハイデッガー『ツォリコーン・ゼミナール』(ゼミナール 1964年7月6, 9日)

メダルト・ボス編『ハイデッガー ツォリコーン・ゼミナール』木村敏・村本詔司共訳、みすず書房、1991年。

 

引用

「「実在的」とはどういうことでしょうか。それは「事柄を含んでいること(Sachhaltigkeit)」を指しています。しかし、存在はこの意味では実在的ではありません。にもかかわらずテーブルに存在が認められているのです。存在がテーブルに到来(zukommen)しています。……どのように到来しているのでしょう。存在とはどういうことでしょう」(ハイデッガー 1991:13)。

「居住のための空間ですね。そこにはもろもろの用具が入っています。この空間の内にあるもろもろのものに向けられた一つの方向づけ(Orientierung)があります。これらのものは、そこに住む人たちにとってそれぞれ特別の意味を持っています。つまりその人たちにとっては馴染み深く、他の人たちにとってはよそよそしいものです。それゆえこの〔居住〕空間には「空間なるもの」とは別の性格があります」(同上:14)。

「目を閉じてもテーブルのもとに(bei)いたから」(同上:16)、テーブルがそこにあるはずだという予想が当たらなかった、ということになる。

「Rは同時にこことそこにいます。しかしテーブルは同時にこことそこにあることはできません。人間のみが同時にそことここにいることができるのです。ですから、テーブルは人間とは違った仕方で空間内にあるのです」(同上:16)。

「方向づけ(Orientierung)は、太陽が昇ることと関係があります〔Orient=日の出〕。なぜ、”Occidentieren”ではないのでしょうか〔Occident=日没〕。」

「太陽が昇ると明るく(hell)なります。あたり一面が見えてきます。いろいろなものが現れてきます〔……〕暗闇でも空き地はあります。空き地は光とは関係なく、「軽い(leicht)」から来ています。光は知覚と関係しています。暗闇の中でもぶつかることはあります。それには光は要りませんが、空き地は要ります〔……〕空地は、軽くする(leicht machen)、空にする(frei machen)から来ています。たとえ暗くても、森の空き地(Waldlichtung)はあります。光は空き地を前提としています〔……〕空き地は、明るくなったり暗くなったりしうることの前提であり、空け(das Freie)、開け(das Offene)のことです」(同上:18f.)。

「空間はテーブルのために空きを与えているという仕方でテーブルを解放(freigeben)している」(同上:19)。

「空間はいろいろな場所を持っています。片づける(aufräumen)とは、自分の周りにあるもの、あるべき場所にない事物に秩序を与えることです。これは、単にものとして存在すること(Vorhandensein)とは少し違います」(同上:19)。

「人間は空間を開け(einraumen)、生じさせ(zulassen)てしまっています〔……〕動物は空間を空間としては体験しません」(同上:22)。

「言葉がなければそもそも人間の関係はありません〔……〕言うとはもともと、「示す(zeigen)」ことです」(同上:23)。

「わたしはここに坐り、皆さんと話をし、壁に向かって坐り、空間のもろもろの事物に関係づけられています。テーブルはテーブル以外のほかの事物に関係づけられていません! 何かとしての何かに関わることが、語ること、言うことです」(同上:23)。

「もっとも明白なものこそまさに存在(das Sein)なのです。これがもっとも見えにくいのです。あるいはプラトンは、もし人間が光の方を見ようとするならば目が眩んでしまう、と言っています」(同上:23)。

 

 

読解

テーブルが丸いとか固いとか重いというとき、テーブルはそういったことを含んでいる。つまりテーブルに焦点を定めればそういったことは明らかになる。しかし、テーブルが丸いとか固いとか重いということとテーブルが存在することとのあいだには決定的な位相差がある。そのため、テーブルに焦点を定めたとしてもテーブルが存在することが明らかになることはない。存在することはテーブルがその内に含んでいることではなく、テーブルに向かって到来(zukommen)することなのである。

方向づけ(Orientierung)というのは、意味指示性(Bedeutsamkeiten)の内実である。それは太陽が昇ることないしは太陽からの光と関係があるようである。暗いところでは見えてこなかったもろもろの用具(Zuhandensein)の意味連関が明るみに出、それがわたしたちに馴染み深さを覚えさせるということだろうか。

LichtungはLichtとは関係がない。「暗闇でも空き地はある」というのは、空き地が光以前ないしは知覚以前のおそらくは存在論的な諸現象にかかわるものであることを示している。つまり、ここでは「存在論的な諸現象は存在的な諸現象に先立つ」ということが空き地と光の関係から再度説明されているのである。空き地は空け(das Freie)ないしは開け(das Offene)であるというのは、それがどういったものであるかはともかくとして空けとか開けというのは存在論的な諸現象にかかわっているという意味である。空けとか開けを「それ自身は空間的なものではないものの空間を空間として成立させているようなある種のこと的なはたらき」と解釈したのも、外れではないと思う。

空間というのは単なる無色透明の「空間なるもの」としてではなくむしろ居住空間として考えるべきなんだろうか。テーブルはそれ自体単独で存在するのではなく、空きを与えられつつ、つまりほかの物に向かって解放されつつなんらかの秩序の下で存在している。このことを人間的実存のほうから見れば、わたしたちは物を片づけたり秩序を与えたりしているのであって、それが、空間を開け(einraumen)、生じさせる(zulassen)ということの具体例だろう。そうして、わたしたちは空間のもろもろの事物に関係づけられている。それは別の角度から見れば、人間は「言葉を持った生きもの」として、「示す(zeigen)」はたらきによって、空間を空間として体験している、ということである。つまり、わたしたちはそれ自体単独で存在する物にではなく「何かとしての何か」に関わっているのである。そこに語ること、言うことが関わっている。つまり、前の言葉でいえば、空間を空間として体験するとか「何かとしての何か」に関わるというのは、根拠の根拠に裏づけられた証明としての根拠の次元での事柄である。そう考えてみれば、空間としての空間と空き地(Lichtung)との関係がなんとなく見えてくるような気がしないではないが、それには時間が明らかにされなければならないという。

 

 

引用

「存在(ザイン)もたしかに前もって「あけ」られて(vorgelichtet)はいますが、ことさらに注意が払われたり、思案されたりはしていません。存在すること(Sein)は存在するもの(Seiendes)ではないのですから、存在者(Seiendes)と存在(Sein)の区別はもっとも根本的でもっとも困難な区別です」(同上:24)。

「存在はそれに固有の示し方を要求します。存在は人間の恣意の内にはなく、何らかの科学によって手をつけることはできません。人間としてわたしたちはただ、この区別に基づいて実存できるだけです。存在をしっかりと見てとるうえで頼りとなるのは、認取(フェアネーメン)する〔聞き取る〕ことへの自分自身の用意だけです。この認取に自分を委ねる(sich einlassen)ことこそ、人間の卓越した行為です。それは実存(エクシステンツ)の転換を意味します。それは科学を放棄することではなく、反対に、科学に対する思慮深い自覚的な関わりに到達し、科学の限界を本当に考え抜くことを意味します」(同上:25)。

「から(weil)」は継起〔一方の後に続いて他方が起こるということ(Nacheinander)〕だけでなく、一つの制約(Bedingung)、つまり必然的継起を意味しているのです! これが、自然科学で通用している因果性であり、ニュートンガリレイ以来の近代的思惟を支配しています」(同上:25)。

「ポイエーシスとプラークシス、制作すること(Herstellen)と行為すること(handeln)は等しくありません。プラークシスは動機(Motivation)を持っています!」(同上:26)

「現代の因果性が前提しているのは自然過程であって、ポイエーシスではありません。ギリシャ人は、自分たちの理解した自然の運動、キネーシスκίνησιςを、ポイエーシスから見て解釈していました。ガリレイはこれと対決したのです」(同上:26f.)。

アリストテレスでは、それはポラーφοράと呼ばれます。これは物体がある場所から他の場所へ、自らの場所へ運搬されることを意味します〔……〕ギリシャの思惟には客観的なものは何も見出せません。客観的なものは近代自然科学においてはじめて現れます。人間はその場合、デカルトの意味で主観(Subjekt)になります」(同上:27)。

「そう〔科学的に確認されるものだけが「客観的」でそれ以外のものはすべて主観的〕です。空間についてのわたしたちのまったく別の捉え方は主観的でしかないのでしょうか。……これはすでに存在を見てとる一つの仕方なのです! 一種の洞察なのです! 物理学の真理とは別の種類の、そしてひょっとするとそれより高次であるかもしれないような真理なのです! そのことが分かれば、科学に対する自由な態度が得られます」(同上:28)

「動機の性格は、それがわたしを動かし、人間に語りかける(アンシュプレッヘン)ということです。動機の中には明らかに、わたしに語りかけるところの存在する何かがあるようです。一定の意味連関と世界連関に対する理解、開けです」(同上:31)。

「因果性は一つの理念であり、存在論的な規定です。因果性は自然の存在構造の規定に属しています。動機づけは、行為し、経験するものとしての人間の、世界の内での実存に関わっているのです」(同上:33)。

 

 

読解

存在(Sein)は前もって「あけ」られて(vorgelichtet)いる、といわれているからには存在はLichtungに関係しているはずである。しかし、存在には注意が払われていない。存在に注意を払うというのは、存在者と存在の区別に従って実存することであって、それは「みずから」の相の下での人間の恣意から翻って「おのずから」の相の下での認取に自分を委ねる(sich einlassen)ことである。それは科学に対する関わりの問題に繋がっていく。

ギリシャにおける因果性と近代以降の因果性(特に作用因)とは全然違う。ギリシャにおいては、因果性が前提しているのはポイエーシス、すなわち制作なのである。自然の運動=キネーシスもポイエーシスから解釈されていた。そのため、物体の運動にしても、「自らの場所へ運搬されること」として解釈されたのである。それに対してガリレイは等質な、ということは上下左右に一切の優越ないしは差のない物理的空間を想定し、「自らのあるべき場所」を物がそれぞれもつような空間を拒否した。

この「自らのあるべき場所」を物がそれぞれもつような空間の見方が、科学にとっては主観的でしかない見方である一方でそれは「存在を見てとる一つの仕方」なのであって、その意味で実は「おのずから」というあり方と深く関わっていたのである。

ポイエーシスとプラークシスは動機の有無によって区別される。窓を閉める場合であれば安らぎがほしいというのがその動機にあたる。ただ、安らぎがほしいからといってそのとき窓を閉めることを強制されているわけではなく、むしろ自由な意志がそこで呼び起こされる。自由な意志が呼び起こされるというのは人間的実存の側から見た場合であって、「もろもろの所与」のほうから見れば、わたしに「語りかける」(ansprechenないしはsichzusprechen)ということになる。この「語りかけ」を聞き取ること、認取することが「おのずから」に呼応する人間的実存のあり方なのである。

要は、運動の根拠に注目するとき、人間的実存に関わるのが動機でありプラークシスであって、「もろもろの所与」に関わるのが(ギリシャ的な)因果性でありポイエーシスである。そしてこの両者に関わるあり方として、「おのずから」は位置づけられるのである。