ハイデッガー『ツォリコーン・ゼミナール』(ゼミナール 1964年7月6, 9日)

メダルト・ボス編『ハイデッガー ツォリコーン・ゼミナール』木村敏・村本詔司共訳、みすず書房、1991年。

 

引用

「「実在的」とはどういうことでしょうか。それは「事柄を含んでいること(Sachhaltigkeit)」を指しています。しかし、存在はこの意味では実在的ではありません。にもかかわらずテーブルに存在が認められているのです。存在がテーブルに到来(zukommen)しています。……どのように到来しているのでしょう。存在とはどういうことでしょう」(ハイデッガー 1991:13)。

「居住のための空間ですね。そこにはもろもろの用具が入っています。この空間の内にあるもろもろのものに向けられた一つの方向づけ(Orientierung)があります。これらのものは、そこに住む人たちにとってそれぞれ特別の意味を持っています。つまりその人たちにとっては馴染み深く、他の人たちにとってはよそよそしいものです。それゆえこの〔居住〕空間には「空間なるもの」とは別の性格があります」(同上:14)。

「目を閉じてもテーブルのもとに(bei)いたから」(同上:16)、テーブルがそこにあるはずだという予想が当たらなかった、ということになる。

「Rは同時にこことそこにいます。しかしテーブルは同時にこことそこにあることはできません。人間のみが同時にそことここにいることができるのです。ですから、テーブルは人間とは違った仕方で空間内にあるのです」(同上:16)。

「方向づけ(Orientierung)は、太陽が昇ることと関係があります〔Orient=日の出〕。なぜ、”Occidentieren”ではないのでしょうか〔Occident=日没〕。」

「太陽が昇ると明るく(hell)なります。あたり一面が見えてきます。いろいろなものが現れてきます〔……〕暗闇でも空き地はあります。空き地は光とは関係なく、「軽い(leicht)」から来ています。光は知覚と関係しています。暗闇の中でもぶつかることはあります。それには光は要りませんが、空き地は要ります〔……〕空地は、軽くする(leicht machen)、空にする(frei machen)から来ています。たとえ暗くても、森の空き地(Waldlichtung)はあります。光は空き地を前提としています〔……〕空き地は、明るくなったり暗くなったりしうることの前提であり、空け(das Freie)、開け(das Offene)のことです」(同上:18f.)。

「空間はテーブルのために空きを与えているという仕方でテーブルを解放(freigeben)している」(同上:19)。

「空間はいろいろな場所を持っています。片づける(aufräumen)とは、自分の周りにあるもの、あるべき場所にない事物に秩序を与えることです。これは、単にものとして存在すること(Vorhandensein)とは少し違います」(同上:19)。

「人間は空間を開け(einraumen)、生じさせ(zulassen)てしまっています〔……〕動物は空間を空間としては体験しません」(同上:22)。

「言葉がなければそもそも人間の関係はありません〔……〕言うとはもともと、「示す(zeigen)」ことです」(同上:23)。

「わたしはここに坐り、皆さんと話をし、壁に向かって坐り、空間のもろもろの事物に関係づけられています。テーブルはテーブル以外のほかの事物に関係づけられていません! 何かとしての何かに関わることが、語ること、言うことです」(同上:23)。

「もっとも明白なものこそまさに存在(das Sein)なのです。これがもっとも見えにくいのです。あるいはプラトンは、もし人間が光の方を見ようとするならば目が眩んでしまう、と言っています」(同上:23)。

 

 

読解

テーブルが丸いとか固いとか重いというとき、テーブルはそういったことを含んでいる。つまりテーブルに焦点を定めればそういったことは明らかになる。しかし、テーブルが丸いとか固いとか重いということとテーブルが存在することとのあいだには決定的な位相差がある。そのため、テーブルに焦点を定めたとしてもテーブルが存在することが明らかになることはない。存在することはテーブルがその内に含んでいることではなく、テーブルに向かって到来(zukommen)することなのである。

方向づけ(Orientierung)というのは、意味指示性(Bedeutsamkeiten)の内実である。それは太陽が昇ることないしは太陽からの光と関係があるようである。暗いところでは見えてこなかったもろもろの用具(Zuhandensein)の意味連関が明るみに出、それがわたしたちに馴染み深さを覚えさせるということだろうか。

LichtungはLichtとは関係がない。「暗闇でも空き地はある」というのは、空き地が光以前ないしは知覚以前のおそらくは存在論的な諸現象にかかわるものであることを示している。つまり、ここでは「存在論的な諸現象は存在的な諸現象に先立つ」ということが空き地と光の関係から再度説明されているのである。空き地は空け(das Freie)ないしは開け(das Offene)であるというのは、それがどういったものであるかはともかくとして空けとか開けというのは存在論的な諸現象にかかわっているという意味である。空けとか開けを「それ自身は空間的なものではないものの空間を空間として成立させているようなある種のこと的なはたらき」と解釈したのも、外れではないと思う。

空間というのは単なる無色透明の「空間なるもの」としてではなくむしろ居住空間として考えるべきなんだろうか。テーブルはそれ自体単独で存在するのではなく、空きを与えられつつ、つまりほかの物に向かって解放されつつなんらかの秩序の下で存在している。このことを人間的実存のほうから見れば、わたしたちは物を片づけたり秩序を与えたりしているのであって、それが、空間を開け(einraumen)、生じさせる(zulassen)ということの具体例だろう。そうして、わたしたちは空間のもろもろの事物に関係づけられている。それは別の角度から見れば、人間は「言葉を持った生きもの」として、「示す(zeigen)」はたらきによって、空間を空間として体験している、ということである。つまり、わたしたちはそれ自体単独で存在する物にではなく「何かとしての何か」に関わっているのである。そこに語ること、言うことが関わっている。つまり、前の言葉でいえば、空間を空間として体験するとか「何かとしての何か」に関わるというのは、根拠の根拠に裏づけられた証明としての根拠の次元での事柄である。そう考えてみれば、空間としての空間と空き地(Lichtung)との関係がなんとなく見えてくるような気がしないではないが、それには時間が明らかにされなければならないという。

 

 

引用

「存在(ザイン)もたしかに前もって「あけ」られて(vorgelichtet)はいますが、ことさらに注意が払われたり、思案されたりはしていません。存在すること(Sein)は存在するもの(Seiendes)ではないのですから、存在者(Seiendes)と存在(Sein)の区別はもっとも根本的でもっとも困難な区別です」(同上:24)。

「存在はそれに固有の示し方を要求します。存在は人間の恣意の内にはなく、何らかの科学によって手をつけることはできません。人間としてわたしたちはただ、この区別に基づいて実存できるだけです。存在をしっかりと見てとるうえで頼りとなるのは、認取(フェアネーメン)する〔聞き取る〕ことへの自分自身の用意だけです。この認取に自分を委ねる(sich einlassen)ことこそ、人間の卓越した行為です。それは実存(エクシステンツ)の転換を意味します。それは科学を放棄することではなく、反対に、科学に対する思慮深い自覚的な関わりに到達し、科学の限界を本当に考え抜くことを意味します」(同上:25)。

「から(weil)」は継起〔一方の後に続いて他方が起こるということ(Nacheinander)〕だけでなく、一つの制約(Bedingung)、つまり必然的継起を意味しているのです! これが、自然科学で通用している因果性であり、ニュートンガリレイ以来の近代的思惟を支配しています」(同上:25)。

「ポイエーシスとプラークシス、制作すること(Herstellen)と行為すること(handeln)は等しくありません。プラークシスは動機(Motivation)を持っています!」(同上:26)

「現代の因果性が前提しているのは自然過程であって、ポイエーシスではありません。ギリシャ人は、自分たちの理解した自然の運動、キネーシスκίνησιςを、ポイエーシスから見て解釈していました。ガリレイはこれと対決したのです」(同上:26f.)。

アリストテレスでは、それはポラーφοράと呼ばれます。これは物体がある場所から他の場所へ、自らの場所へ運搬されることを意味します〔……〕ギリシャの思惟には客観的なものは何も見出せません。客観的なものは近代自然科学においてはじめて現れます。人間はその場合、デカルトの意味で主観(Subjekt)になります」(同上:27)。

「そう〔科学的に確認されるものだけが「客観的」でそれ以外のものはすべて主観的〕です。空間についてのわたしたちのまったく別の捉え方は主観的でしかないのでしょうか。……これはすでに存在を見てとる一つの仕方なのです! 一種の洞察なのです! 物理学の真理とは別の種類の、そしてひょっとするとそれより高次であるかもしれないような真理なのです! そのことが分かれば、科学に対する自由な態度が得られます」(同上:28)

「動機の性格は、それがわたしを動かし、人間に語りかける(アンシュプレッヘン)ということです。動機の中には明らかに、わたしに語りかけるところの存在する何かがあるようです。一定の意味連関と世界連関に対する理解、開けです」(同上:31)。

「因果性は一つの理念であり、存在論的な規定です。因果性は自然の存在構造の規定に属しています。動機づけは、行為し、経験するものとしての人間の、世界の内での実存に関わっているのです」(同上:33)。

 

 

読解

存在(Sein)は前もって「あけ」られて(vorgelichtet)いる、といわれているからには存在はLichtungに関係しているはずである。しかし、存在には注意が払われていない。存在に注意を払うというのは、存在者と存在の区別に従って実存することであって、それは「みずから」の相の下での人間の恣意から翻って「おのずから」の相の下での認取に自分を委ねる(sich einlassen)ことである。それは科学に対する関わりの問題に繋がっていく。

ギリシャにおける因果性と近代以降の因果性(特に作用因)とは全然違う。ギリシャにおいては、因果性が前提しているのはポイエーシス、すなわち制作なのである。自然の運動=キネーシスもポイエーシスから解釈されていた。そのため、物体の運動にしても、「自らの場所へ運搬されること」として解釈されたのである。それに対してガリレイは等質な、ということは上下左右に一切の優越ないしは差のない物理的空間を想定し、「自らのあるべき場所」を物がそれぞれもつような空間を拒否した。

この「自らのあるべき場所」を物がそれぞれもつような空間の見方が、科学にとっては主観的でしかない見方である一方でそれは「存在を見てとる一つの仕方」なのであって、その意味で実は「おのずから」というあり方と深く関わっていたのである。

ポイエーシスとプラークシスは動機の有無によって区別される。窓を閉める場合であれば安らぎがほしいというのがその動機にあたる。ただ、安らぎがほしいからといってそのとき窓を閉めることを強制されているわけではなく、むしろ自由な意志がそこで呼び起こされる。自由な意志が呼び起こされるというのは人間的実存の側から見た場合であって、「もろもろの所与」のほうから見れば、わたしに「語りかける」(ansprechenないしはsichzusprechen)ということになる。この「語りかけ」を聞き取ること、認取することが「おのずから」に呼応する人間的実存のあり方なのである。

要は、運動の根拠に注目するとき、人間的実存に関わるのが動機でありプラークシスであって、「もろもろの所与」に関わるのが(ギリシャ的な)因果性でありポイエーシスである。そしてこの両者に関わるあり方として、「おのずから」は位置づけられるのである。

ハイデッガー『ツォリコーン・ゼミナール』(ゼミナール 1964年1月24, 28日)

メダルト・ボス編『ハイデッガー ツォリコーン・ゼミナール』木村敏・村本詔司共訳、みすず書房、1991年。

 

引用

《存在(Sein)は、明らかに(offenbar)、実在的(real)な述語(Prädikat)ではない》(カント)

 

「real(実在的)は、〔……〕res(事物)から由来していることに応じて、sachhaltig(事に即して)、つまり、事物において見出しうるもの(an der Sache Vorfindbares)を意味します。たとえばテーブルの実在的実存的(レアール)な述語とは〔……〕丸い、固い、重いなどです」(ハイデッガー 1991:5)。

real(実在的)に対して、wirklich(現実)やunwirklich(非現実)は、現実(wirklich)に存在しているか、あるいはただ表象されているだけなのか、ということに関わっている。「存在は〔……〕テーブルにおける実在的な何かとして見つけ出すことができません」(同上:5)。

明らか(offenbar)というのは、その意味を展開すれば、offenkundig(公然と)とかevident(明白に)ということである。「evidentは、evideri=sich sehen lassen(自らを見させる)から来ており、ギリシャ語では、エナルゲースἐναργής、つまりそれ自身から自らを示しながら(sich von ihm selbst her zeigend)輝きつつ現れる(leuchtend scheinen)ことになります」(同上:5f.)。

「したがってカントによれば、存在が実在的な述語ではないということは明らかであって、それは、この「実在的述語ではないこと」(Kein-reales-Pradikat-sein)が純粋に受け止められ、受け入れられ(angenommen)ねばならないという意味なのです」(同上:6)。

 

 

読解

ある物が丸いとか固いとか重いということについてなにか言われるときには、物のほうに焦点が定められており、その意味で「事(ないしは物)(Sache)に即して」丸いとか固いとか重いということが言われる。その一方で、存在(Sein)、ないしは存在することは、ものではなくてあくまでもことである。つまり、ある物が存在することについてなにか言われるときには、物のほうにではなく、存在することのほうに焦点が定められている。それゆえ、存在することを物のほうから見つけ出すことはできない。ことにしても、存在することというのはある意味では第一義的なことであるということができよう。

存在することに関わるwirklichについてもう少しみれば、wirklichの動詞形であるwirkenは英語でいうところのworkであって、行為的ないしはこと的な意味合いが強い。そして、wirklichは名詞workのラテン語形であるactioに由来するactualという形容詞に相当する。言ってみれば、ことというのは、さしあたってはactualの名詞形であるactuality、ドイツ語に直せばwirklichkeitのことなのである。存在することは、兎にも角にも行為的なこととしてみなければならないのである。この行為的側面が、次のleuchtenという言葉の使用法に関わってくる。

明らかに(offenbar)という言葉を拡大解釈すれば、存在が実在的な述語ではないということは、こちらから明らかにするようなことではなく、存在が実在的な述語ではないということそれ自体のほうから「おのずから」現れてくることである。この「おのずから」ということがleuchten(光る、輝く)という言葉の意味である。Lichtung(林間の空き地)に「もろもろの所与」がLicht(光)のように差し込んでくる、というようなイメージがここにも見出される。この「おのずから」差し込む光のイメージによって、存在することの行為的ないしはこと的な有様が表現されているのである。

「実在的述語ではないこと」が受け入れられ(angenommen)ねばならない、といわれるときのそのAnnahme(受け入れ)というのが、「存在が実在的な述語ではないということ」が現れてくるその様態としての「おのずから」に呼応する人間的実存のあり方である。以下Annahmeの複数の意味の違いが詳述される。

 

 

引用

「Annehmenの二つの様式(仮定することと受容すること)」(同上:7)。

a 仮定することとは、「それ自身与えられておらず、与えることのできない何かを条件として設定すること、何かをある対象の「下に置く(unterstellen)」こと」(同上:6)である。

仮定としてのAnnahmeによって、ある事象がかくかくしかじかに説明される、どのように発生するかが証明(beweisen)される。

b 受容することとは、「ある与えられたものをそのまま受け取ること(Hinnahme einer Gabe)、あることに対して自らを開けておくこと(Sich-offen-halten für eie Sache)」(同上:6)である。

受容としてのAnnahmeによって、「それ自身から自らを示すもの、公然たるもの(das Offenkundige)を、そのまま受け取ること(Hinnehmen)、端的に認取すること(schlechthinniges Vernehmen)」(同上:6)がなされる。

「公然たるものというのは、たとえばわたしたちの前にあるテーブルの存在ですが、それは仮定を通して証明することができません。〔……〕受け取ることにおいて認取されたものは、何の証明も必要としません。それはそれ自身を証示(sich ausweisen)します。このようにして認取されたものは、それ自身、それに関する陳述の基盤となる根底(Boden)、根拠(Grund)です。これは、言われたことが端的におのずと分かる〔それ自身を証示する〕ということを意味します。そこへわたしたちが到達するのは、端的に指摘すること(Hinweisen)によってです」(同上:6f.)

「どこでわたしたちが証明を要求せねばならず、証明を探し求め、どこで何の証明も要らず、それにもかかわらずもっとも高度な種類の根拠づけ(Begründung)を見出すかは、厳密に区別されなければなりません」(同上:7)。

「いかなる仮定も、つねにすでに受容の一定の様式に基づいています。何かあるものの現存性(Anwesenheit)が受容されていてはじめて、その下にいろいろな仮定を立てることができるのです」(同上:7)。

 

 

読解

「実在的述語ではないこと」が受け入れられ(angenommen)ねばならない、といわれるときのそのAnnahme(受け入れ)の二つの様式のうちでも、bの受容としてのAnnahmeのほうが重要視されている。「公然たるものを端的に認取する」といわれるときの公然たるものというのは、ここでは「存在が実在的述語ではないこと」であり、テーブルの存在ないしはテーブルが存在することである。人間的実存のほうに引きつけてみるならば、「何かあるものの現存性(Anwesenheit)」ないしは何かあるものに居合わせていることになる。あくまでもことである。前の言葉でいえばこと的な「もろもろの所与」である。人間的実存の様態である端的に認取することというのは、自らを開けておくこと(Sich-offen-halten)であり、そのまま受け取ること(Hinnehmen) である。前の言葉でいえば現にあることの「空け」を開けたままにしておくこと(Offenhalten)である。そういった公然たるものはそれ自身を証示しているため、人間的実存にとっては、「おのずから」の相のもとで認取される(べきものである)。その公然たるものについての実在的な陳述や証明(たとえばそのテーブルが丸いとか固いとか重いと言うこと)は、そこから為されなければならない。その意味で、証明がひとつの根拠であるならば、公然たるものはいわば根拠の根拠である。陳述されている当のものは、陳述ないしは証明されることによって際立つのではない。それどころか、そもそも証明を必要としない。人間的実存にとっては、証明の対象ではなく、それはいわば陳述以前の直指(Hinweisen)の対象である。そしてこの直指が、「もっとも高度な種類の根拠づけ(Begründung)を見出す」ことなのである。根拠の根拠である受容としてのAnnahmeに基づいて、仮定としてのAnnahmeは可能になる。

 

 

引用

「そのまま受け取られるものは、現れるもの(das Erscheinende)、つまり現象(Phänomen)です。二種類の現象があります。

a 知覚可能な、存在者として存在している諸現象、すなわち存在者的(ontisch)な諸現象、たとえば、テーブル。

b 感覚的に知覚可能でない諸現象、たとえば何かが存在すること、すなわち存在論的(ontologisch)な諸現象。

知覚可能でない存在論的現象は、必然的にあらゆる知覚可能な現象に先だってあらかじめ(zuvor)、知覚可能な現象のために現れています。わたしたちは、テーブルをこのテーブルとかあのテーブルとして知覚する前に、現存する(アンヴェーゼン)ということのような何ごとかがある(es gibt)ということを、すでにあらかじめ認取しているはずです」(ハイデッガー1991:8)。

 

「二種類の明証性(エヴィデンツ)〔……〕

1 わたしたちは、存在(existieren)しているテーブルを「見て(sehen)います」。これは、存在者的明証性(オンティッシェ・エヴィデンツ)です。

2 わたしたちは、テーブルの存在(エクシスティーレン)することがテーブルの性質ではないこと、しかし、わたしたちがテーブルは存在する(ist)と言うときにはテーブルの存在(エクシスティーレン)のことを言っているということも「見てとって(sehen)います」。これは存在論的明証性(オントローギッシェ・エヴィデンツ)です」(同上:9)。

 

《存在は物の設定、或は物の或る規定の設定(Position)にほかならない》(カント)

 

存在は「どのような述語なのでしょうか。それは「物の設定(ポジツィオーン)にほかならない」のであり、つまりはある所与の被措定性〔置かれていること〕(Gesetzheit)なのです」(同上:9)。

「設定とは、わたしが設定(ゼッツェン)するということです。わたし、つまり人間がここでは活動を始めるのです。どういうときにかというと、存在するテーブルを知覚し、見るときにです」(同上:9)。届ける、出くわす、制作する、などの活動。

「自らに本来固有の姿において存在するという仕方で、テーブルは使用において、つまりは人間がそれと関わることにおいて自らを示します。わたしたちはテーブルを用具として存在する姿で見るのです」(同上:10)。

 

 

読解

そのまま受け取られる「もろもろの所与」ないしは「公然たるもの」はここでは「現象」と呼ばれている。存在者的な諸現象というのは、ものを指している。「事物において見出しうる」実在的(real)なこと (丸いとか固いとか重いということ)も、こちら側に属しているはずである。存在論的な諸現象というのは、現実的(wirklich)なこと、すなわち何かが存在することを指している。この二つの現象の違いは、先の物のほうに焦点が定められているか、存在することのほうに焦点が定められているかの違いに即している。

人間的実存にとっては存在論的な諸現象のほうが先である。つまり、テーブルが丸いとか固いとか重いということより先に、テーブルに居合わせている(anwesen)とでもいうべきことが起こっているのである。このように、存在論的な諸現象は、「現存する(アンヴェーゼン)ということのような何ごとかがある(es gibt)」といわれるようなかたちで、人間的実存の側からではなく「もろもろの所与」のほうから、何だかよくわからないが「語りかけながら出会ってくる」(sichzusprechend begegnen)、というような類のものである。

二種類の現象の区別は「おのずから」現れる「もろもろの所与」のほうに注目した際の区別である。一方、二種類の明証性(Evidenz)の区別は、evideri=sich sehen lassenという「もろもろの所与」の様態としての「おのずから」に呼応する人間的実存のあり方の区別である。ここでも、物のほうに焦点が定められているか、存在することのほうに焦点が定められているかの違いに即した区別が為されている。テーブルを知覚したりテーブルが丸いとか固いとか重いと判断したりすることとテーブルが存在するということを認取する(vernehmen)、ないしは洞察する(einsehen)こととのあいだには、そしてテーブルが丸いとか固いとか重いということとテーブルが存在するということとのあいだには決定的な位相差があるのである。

カントにおいては、存在することはどのようなこととして洞察されているのだろうか。拡大解釈すれば、カントにとっては、存在することと「設定(setzen)されていること」、ひいては「わたしが設定すること」とはひとつである。そして、「わたしが設定すること」というのは、テーブルに関する、届けるとか出くわすとか制作するなどといった「活動」のことである。このように、人間的実存においては、存在することは、活動の相の下で、ということは行為的ないしはこと的なあり方において受容されているのであって、aとbの現象の区別にしても、1と2の明証性の区別にしても、そこから為されなければならない。

行為のほうからテーブルが見られるとき、テーブルは自らに本来固有の姿において存在するという仕方で自らを示す、ないしは「おのずから」現れる。わたしたちは単なる事物的に存在している(vorhanden)対象ではなく、用具として存在する(zuhanden)テーブルを見るのである。

 

 

引用

「テーブルは空間を通り抜けてR先生に向かって自らを示しています。空間はしたがってテーブルが現れ出ることへと向かって透き通って(durchlässig)いるのです。空間は開け(offen)、空いている(frei)のです」(同上:10)。

「空間の空間性(Räumlichkeit)は、透過性(Durchlässigkeit)、開け(Offenheit)、空いていること(das Freie)の内に成立しています。これに対して、開けそれ自身は空間的なものではありません。それを通り抜けて何かが現れ、それなりのあり方で自らを示す、この通り抜け(Hindurch)こそ、開けているもの、空いているものです。この開けているもののなかにわたしたちは自らを見出しながら存在している(uns finden und uns befinden)のです」(同上:10)。「いつもすでにそことそして〔同時に〕そこにいる」(同上:10)。

「彼はこの空間の中に自らの存在を見出して(sich befinden)います。わたしたちはこの空間の内に逗留(aufhalten)しています。わたしたちはこれとかあれとかに留まる(halten)ことで空間に入りこんで(aufgehen)いるのです」(同上:11)。

 

 

読解

テーブルが「おのずから」現れることを「もろもろの所与」のほうから見るとき、「もろもろの所与」が現にあることの現(Da)に向かって「語りかけながら出会ってくる」(sichzusprechend begegnen)際の、その「現(Da)に向かって」ということに注目するならば、どうしても「もろもろの所与」のいわば「於いてある」場所である空間が問題になってくる。「もろもろの所与」のほうから見られた「現(Da)に向かって」ということは、空間のほうから見るならば、「空間を通り抜けて」、ということになる。

空間は無色透明の即自的なものではなく、透過性(Durchlässigkeit)、開け(Offenheit)、空いていること(das Freie)といった、それ自身は空間的なものではないものの空間を空間として成立させているようなある種のこと的なはたらきに基づいている。透過性(Durchlässigkeit)というのは何となくわかるが、開け(Offenheit)とか空いていること(das Freie)というのはまだどういったことなのかはよくわからない。「空け」られていること(Gelichtetheit)とは訳語からして何か違いがあるのか。これもまた「もろもろの所与」のほうに焦点が定められているか、人間的実存のほうに焦点が定められているかの違いに基づいているのか、そうではないのか。

それはいずれ明らかになることとして、通り抜け(Hindurch)とか開けているもの、空いているもの、というのは、「もの」というよりかはこと、ないしははたらきであろう。通り抜け(Hindurch)は空間に即して、「語りかけながら出会ってくる」(sichzusprechend begegnen)は「もろもろの所与」に即して、現にあることの「空け」を開けたままにしておくこと(Offenhalten)は人間的実存に即して、というように、同じ出来事であるにしてもそれを何に即して見るかによって言葉遣いが変わってくる。ここでは、通り抜け(Hindurch)も動詞的なある種のはたらきを内に込めつつ読まれるべきである。

わたしたちはそういったはたらきのなかに自らを見出しながら、何らかの気分によって色づけられつつ存在している(uns finden und uns befinden)。「いつもすでにそことそして〔同時に〕そこにいる」といわれるように、「ここ」と「そこ」にいる。もの的にみれば同時に二つの場所にいるわけであるから非合理この上ないが、行為的ないしはこと的に見るならば、そう言うしかないのである。現にあることの現(Da)と言うとき、「ここ」をhaltenという動詞で見、そして「そこ」をaufgehenという動詞で見ながら、この二つを同時にaufhaltenというかたちで見てしまわなければならない。これが、人間的実存にとっての、現にあることの「空け」を開けたままにしておくこと(Offenhalten)の内実である。

ハイデッガー『ツォリコーン・ゼミナール』(ゼミナール 1959年9月8日)

メダルト・ボス編『ハイデッガー ツォリコーン・ゼミナール』木村敏・村本詔司共訳、みすず書房、1991年。

 

引用

人間的実存(menschliches Existieren)はその本質根拠において、

1)決してどこかに事物的に存在している(vorhanden)対象ではなく、

2)それ自身の内で完結した対象でもない。

そうではなくて、「人間的実存は、「ただの〈ブロース〉」、視覚的にも触覚的にもとらえることのできない、彼に語りかけながら出会ってくるもの(das ihm sichzusprechende Begegnende)に向かって遂行されるもろもろの認取の可能性(Vernehmensmöglichkeiten)から成っている」(ハイデッガー 1991:3)。

 

人間的実存の根本体制(Grundverfassung)は、〈現にあること〉(Da-sein)あるいは〈世界内存在〉(In-der-Welt-sein)と呼ばれる。

 

〈現にあること〉の〈現〉(Da)というのは、見ている者の近くにある空間の場所である「そこ」を意味しているのではない。〈現にあること〉として実存するとは、「〈現にあること〉が「空け」られていること(Gelichtetheit)からもろもろの所与(Gegebenheiten)がそれに向かって語りかけてくるが、その意味指示性(Bedeutsamkeiten)を認取〈フェアネーメン〉しうることによってある領域を開けたままにしておく(Offenhalten)」(同上:3)ことである。

「人間の〈現にあること〉は、認取しうることの領域として、決して単に事物的に存在する〈フォアハンデン〉対象ではない。反対にそれはそもそも決して、もともと決していかなる場合であろうとも、対象化すべき何かではない」(同上:3)。

 

読解

1)人間的実存、人間的(menschlich)に実存する〈こと〉(existieren)は、〈もの〉ではなくあくまでも〈こと〉である。また、それは、「視覚的にも触覚的にもとらえることのできない、彼に語りかけながら出会ってくるもの」とか「もろもろの所与」と呼ばれているもの*1のほう〈から〉捉えられなければならない。2)その意味で、人間的実存はカプセルのように自己完結した輪郭をもつものではない。「もろもろの所与」のほう〈から〉捉えられる限りは、人間的実存は自己完結することがないのである。

そしてそこ〈から〉、「彼に語りかけながら出会ってくるものに向かって遂行されるもろもろの認取の可能性」とか「意味指示性を認取しうること」というのはどういったことなのか考えられなければならない。このようにして認取しうるのは、人間的実存がその根本的なあり方において、「空け」られているからである。「空け」られているその限りにおいて(Offenhalten)、認取しうるということが言われ、人間的実存ということが言われるのである。「空け」られていること(Gelichtetheit)というのは、ドイツ語から考えると割合わかりやすい。Gelichtetは動詞lichtenの過去分詞形である。lichtenには「間伐する」という意味があって、その名詞形であるLichtungは「林間の空き地」という意味である。「空け」られている(Gelichtetheit)というのは、Lichtung(林間の空き地)に「もろもろの所与」がLicht(光)のように差し込んでくる、というようなイメージだろうか。

*1:これらも〈もの〉としてではなく、「意味指示性」という何かを意味している〈こと〉として捉えられている。「ただの〈ブロース〉」というのは対象化していないという意味だろう。

ハイデガー「詩人のように人間は住まう」

マルティン・ハイデガー「詩人のように人間は住まう」、『哲学者の語る建築⸺ハイデガーオルテガ、ペゲラー、アドルノ伊藤哲夫・水田一征編訳、中央公論美術出版、2008年、所収。

 

功績は多けれど、だが詩人のように、 

人間はこの地上に住まう 

 

「住まうことは詩人的であることに根をおろしている」(ハイデガー 2008:7)。住まうこととは、単に寝泊まりする場所があるだけ、ということではないし、詩人的であることとは、住まうことへの単なる飾りや余計な付け足しでは決してない。そうではなくて、「詩を詠うこととは住むことを、何よりもまず、住まわせるものにする〔……〕詩を詠うこととは、住まわせることとして、建てることなのである」(同上:9)。つまり、詩を詠うことは、「みずから」住むことに、というよりかはむしろ、「おのずから」住むことに関わっている。そして、「おのずから」住むことは、建てることに依拠している。要は、詩を詠うことという建てることが、「おのずから」住むことに関わってくるのである。

 

建てることの有様次第では、住まうことから「おのずから」住むことが排除され、単に寝泊まりする場所があるだけ、ということにもなりかねない。ところで、建てることとは、種から育てること(colere, cultura)と、建設すること(aedificare)の二つに限られるのではない。このような狭義の建てる行為ではない、他の違う建てることが、「詩を詠うこととは、建てることなのである」と言われる場合における建てることなのである。この狭義の建てる行為が、「功績」の次元を一歩も出ないようであれば、住まうことの本質からは離れていってしまう。しかしその一方で、他の違う建てることに目を向けるならば、この狭義の建てる行為もその有様が変わってくる。*1 

 

「この地上に」とヘルダーリンがあえて詠うのは、詩を詠うことの本質を指し示そうとしてのことである。「詩を詠うとは大地の上空を飛翔するのではない。大地を逃れて浮遊するためにすることでもない。詩を詠うとは人間をまず大地の上に手渡し、大地に属させ、そうして人間を住まうことへと送りとどけることなのである」(同上:14f.)。そして、「『この地上に住まう』とは、死すべきものの誰であれそこに己を委ね、そしてそこに晒されて存在する」(同上:14)ことである。つまり「この地上に住まう」ということは死ぬことの問題に関わっている。しかし、それはどのようにしてか、ということが以下語られるのではあるが、この講演では、地上とか大地よりかはむしろ大地とは対をなす天空のほうが問題になってくる。 

 

ここで、ハイデガーは余談として、同一であること、一致することと同様であることとの違いに言及する。「同様であることとはこの差異が無いという点に尽きる〔……〕同様であることは、それら差異的なものを単調な均一性という退屈な一様へと拡散させる」(同上:16)。その一方で、「同一であるとは、差異を介して出会うことで、異なるものが一体を成すことである〔……〕同一であることは、差異的なものを根源的にひとつのものへととり集める」(同上:16)。「差異の区別が考えられる時にのみ、われわれは同一であることが言える。差異を有し続けているから、出会い集まるという同一なるものの本質が明らかになる」(同上:16)。余談とはいえ、重要な箇所である。大地と天空という対にしても、それは言えるはずである。四方界をなす大地と天空、神的な者たちと死すべき者たちという対でいえば、その「と」ということで言わんとしていることが、こういった差異とか同一ということである、ということになるだろうか。 

 

許されるだろうか、人生が苦役に満ちていれば、 

人は、天を見上げて言うのを、 

私もまたそうありたいのだ、と。そのとおり。 

 

「苦役」が「功績」に、「詩人のように」が「天を見上げて言う」に対応している。「見上げるということは、天と地の間なるものを端から端まで測りとおすことである。この間なるものが、人間の住まうために授け与えられているのである」(同上:19)、とハイデガーはいう。ここで、「この地上に住まう」ことの問題、すなわち死ぬことの問題が天と地の「間なるもの」の問題として問われ直されることになる。そして、ハイデガーはこの天と地の「間なるもの」を天と地のほうから考えるのではなく、むしろ天と地を「間なるもの」のほうから考えるために、ディメンション(Dimension)なる概念を持ち出してくる。ここでは、「間なるもの」とは、大地と天空、といわれるときのその「と」にあたる、それとして事後的に明らかになったディメンションのことである。そして、ディメンションとは、単なる空間的な広がりのことではなく、その「と」をそもそも可能にする、あえていえば「『と』以前」のはたらきのことである。*2*3

 

「間なるもの」は「この地上に住む」ことの問題ないしは死ぬことの問題に関わっているが、それがディメンションに依拠しているならば、人間が住まうことにはディメンション=「あいだ」がそこに差しはさまれている、ということになる。そして、「天と地の間なるものを端から端まで測りとおすこと」とは「天上的なるものへ向かって自己を測る」(同上:20)ことであるから、「間なるもの」の問題は自己の問題に直結する。自己もまた、測り得る者として、すなわち「あいだ」に差しはさまれた者であるその限りにおいて、自己なのである。つまり、ディメンション=「あいだ」に差しはさまれつつ天上的なるものへ向かう、という仕方で「間なるもの」の問題ないしは自己の問題を問う限りにおいて、すなわち、そのような仕方で大地と天空、神的な者たちと死すべき者たちといわれるときのその「と」を問う限りにおいて、具体的には、詩を詠うことという一つの建てることを全うする限りにおいて、住まうこと、そして死ぬことが真に問題になってくるのである。

 

「天上的なるものへ向かって自己を測る」とき、この「間なるもの」の問題ないしは自己の問題に、神が「尺度」というかたちで接続されている。そして、「天と地の間なるものを端から端まで測りとおす」際の尺度にあたるのが神である、ということにもなる。ということは、「間なるもの」-神の問題に関わりつつ人間は住まうのであって、そしてその限りにおいて、自己はその本性に即して存在することができるのである。

 

さらに、自己の問題は「住まうことを地上の図へと具象化させること」(同上:21)、すなわち狭義の建てることにも関わっている。つまり、狭義の建てることとは他の違う建てることとしての詩を詠うこと、すなわちディメンション=「あいだ」に差しはさまれつつ天上的なるものへ向かうことが、自己の問題に関わっているだけではなく、それと同時に狭義の建てることにも関わっているのである。そしてそのようにして詩を詠うことによってはじめて、「住まうことが永続する」(同上:21)のであって、そして死ぬことができるのである。その意味で、「詩を詠うとは、ひとつの測ることなのである」(同上:22)。

 

話はそう単純ではないが、あえて図式化していえば、四方界をなす大地と天空、神的な者たちと死すべき者たちという対においては、「この地上に住む」ことの問題ないしは死ぬことの問題が、大地と天空に、自己の問題が、神的な者たちと死すべき者たちに対応しているということができるだろう。そしてこの二つの対が、「と」の場所において、ディメンション=「あいだ」に差しはさまれつつ、すなわち「間なるもの」-神の問題に関わりつつ詩を詠うという行為によって一体を成している、という仕掛けである。 

 

「詩を詠うことにおいては、尺度を取るということが行われる」(同上:22)。しかしその尺度とは何なのか。「天と地の間なるものを端から端まで測りとおす」際の尺度にあたるのが神である、と先にいったが、「神はヘルダーリンにとって、神であるものとして未知なのであり、だからこのような未知なるものとして神は詩人ヘルダーリンにとってまさに尺度なのである」(同上:24)。このとき、既知の尺度がまずあって、そこから測るのではなく、むしろ未知の尺度によって測る、ということになる。さらにいえば、「尺度の本質は、未知にとどまる神が神として天空を通して明らかとなるあり方にある」(同上:25)。つまり、神それ自体が尺度である、というよりかはむしろ、神が現れ出る「こと」が尺度なのである。 それはどのような「こと」なのか。

 

「未知にとどまる神は、自己を神であるものとして示しながら、未知にとどまるものとして現象しなければならない」(同上:24)から、「天空を通して神が現れるということは、隠れているものを覆いを外してわれわれに見えるようにすることであるが、しかし隠れているものをその隠された状態から白日のもとにさらして見えるようにするのではない。そうではなくただ隠れたものを隠れて見えないままに見守ることによって、見えるようにするのである。そうすることで未知の神は、未知なるものとして、天空の明らかさによって密かに現れ出る」(同上:25)のである。つまり、「神は現れないが、『現れない』という仕方で現れる」のであって、ここにヘルダーリン-ハイデガー流の否定神学的構造がある。*4否定神学的構造においては、神は現れないとしても、神は消失したのではなく、不在のままで人間に対して何らかの合図を出している、そしてその合図に耳を澄まして聴く限りにおいて人間は行為し、神の到来を待つ、という神と人間との関係が見られる。その意味で、詩人は、「全体的なるものに耳を澄まして聴きつつ尺度を受け取る」(同上:26)のである。大地と天空、神的な者たちと死すべき者たちという二つの対は、「と」の場所において、否定神学的構造に則って詩を詠う限りにおいて、一体を成し、そこではじめて「住まうことが永続する」(同上:21)のであって、そして死ぬことができるようになるのである。 

 

ここから、天空を通して現れる神とは、どのような「こと」なのか、と問われることになる。神とは何か、と問うのではない。このようにして外堀から埋めていくような問い方も、否定神学的構造に則ったものであるだろう。そのため、人間にとって慣れ親しんだものである天空に目を向け、天空とはどのような「こと」なのか、と問うことになる。 

 

ただ、人間にとって天空が慣れ親しんだものであるとしても、それは事態の半面にすぎない。「神にとって疎遠なるもの、それは天空の光景である。でもそれは人間にとっては慣れ親しんだものである」(同上:30)、といわれるように、天空は、四方界としての世界においては、神と人間という二者の有様に従って、二重性を帯びる。「天空を通して神が現れる」というのは、慣れ親しんだものとしての天空を通して神が現れる、ということではなく、疎遠なるものとしての天空を通して神が現れる、ということなのである。

 

そして、「詩人はこうしたわれわれに見慣れたさまざまな現象の中に、不可視なるものが寄り添い一体となっている疎遠なるものを呼び起こす」(同上:30f.)。つまり、詩を詠むこととは、単に慣れ親しんだものとしての天空を描写するだけではなく、慣れ親しんだものの中に疎遠なるものとしての天空という天空のもう一つの側面を捉えこみつつ、不可視なるものとしての神が疎遠なるものとしての天空と寄り添っていることを明らかにする、すなわち、神を「隠れて見えないままに見守ることによって、見えるようにする」(同上:25)行為なのである。したがって、天空においては、二重の否定神学的構造が見出されることになる。というのも、慣れ親しんだものとしての天空にとっては疎遠なるものとしての天空は隠れており、疎遠なるものとしての天空にとっては神は隠れているからである。

 

「このようなひとつとなった光景をとおして、神はわれわれに奇異な感じを抱かせる。この奇異な感じによって、神は神の不断の近みを知らしめる」(同上:32)のである。ここに、慣れ親しんだものとしての天空と疎遠なるものとしての天空という、「と」の場所において一体となった天空の有様が窺われるのではないだろうか。そして、この「と」の場所に、神が否定神学的に観取されるのではないだろうか。 

 

このような否定神学的構造に則って詩を詠む、という狭義の建てることとは他の違う建てることによってはじめて、「おのずから」住むことが可能になるのである。そのような場所から、狭義の建てることを真に建てることとして実現しなければならない、というのがハイデガーの最終的な立場なのである。

*1:その本来の有様が、「建てること・住むこと・考えること」で語られる橋とか家屋敷に顕れている。

*2:ディメンションは、木村敏のいう「あいだ」と構造の上ではほとんど同じものであろう。

*3:先取りにはなるが、「測るとは、天と地の両者を相互に向い合わせる間なるものを推し測ることである」(同上:21)から、大地と天空、といわれるときのその「と」を推し測ることで顕れてくるのが、ディメンションである、ということもできるだろう。つまり、ハイデガーは事後的に明らかになった「間なるもの」のほうから問うのであって、それ以前のディメンションのほうから問うのではない。

*4:それは、事後的に明らかになった「間なるもの」のほうから、そもそもそれを可能にするディメンションのほうへと探りを入れるその問い方とも通底しているはずである。