ハイデガー「詩人のように人間は住まう」

マルティン・ハイデガー「詩人のように人間は住まう」、『哲学者の語る建築⸺ハイデガーオルテガ、ペゲラー、アドルノ伊藤哲夫・水田一征編訳、中央公論美術出版、2008年、所収。

 

功績は多けれど、だが詩人のように、 

人間はこの地上に住まう 

 

「住まうことは詩人的であることに根をおろしている」(ハイデガー 2008:7)。住まうこととは、単に寝泊まりする場所があるだけ、ということではないし、詩人的であることとは、住まうことへの単なる飾りや余計な付け足しでは決してない。そうではなくて、「詩を詠うこととは住むことを、何よりもまず、住まわせるものにする〔……〕詩を詠うこととは、住まわせることとして、建てることなのである」(同上:9)。つまり、詩を詠うことは、「みずから」住むことに、というよりかはむしろ、「おのずから」住むことに関わっている。そして、「おのずから」住むことは、建てることに依拠している。要は、詩を詠うことという建てることが、「おのずから」住むことに関わってくるのである。

 

建てることの有様次第では、住まうことから「おのずから」住むことが排除され、単に寝泊まりする場所があるだけ、ということにもなりかねない。ところで、建てることとは、種から育てること(colere, cultura)と、建設すること(aedificare)の二つに限られるのではない。このような狭義の建てる行為ではない、他の違う建てることが、「詩を詠うこととは、建てることなのである」と言われる場合における建てることなのである。この狭義の建てる行為が、「功績」の次元を一歩も出ないようであれば、住まうことの本質からは離れていってしまう。しかしその一方で、他の違う建てることに目を向けるならば、この狭義の建てる行為もその有様が変わってくる。*1 

 

「この地上に」とヘルダーリンがあえて詠うのは、詩を詠うことの本質を指し示そうとしてのことである。「詩を詠うとは大地の上空を飛翔するのではない。大地を逃れて浮遊するためにすることでもない。詩を詠うとは人間をまず大地の上に手渡し、大地に属させ、そうして人間を住まうことへと送りとどけることなのである」(同上:14f.)。そして、「『この地上に住まう』とは、死すべきものの誰であれそこに己を委ね、そしてそこに晒されて存在する」(同上:14)ことである。つまり「この地上に住まう」ということは死ぬことの問題に関わっている。しかし、それはどのようにしてか、ということが以下語られるのではあるが、この講演では、地上とか大地よりかはむしろ大地とは対をなす天空のほうが問題になってくる。 

 

ここで、ハイデガーは余談として、同一であること、一致することと同様であることとの違いに言及する。「同様であることとはこの差異が無いという点に尽きる〔……〕同様であることは、それら差異的なものを単調な均一性という退屈な一様へと拡散させる」(同上:16)。その一方で、「同一であるとは、差異を介して出会うことで、異なるものが一体を成すことである〔……〕同一であることは、差異的なものを根源的にひとつのものへととり集める」(同上:16)。「差異の区別が考えられる時にのみ、われわれは同一であることが言える。差異を有し続けているから、出会い集まるという同一なるものの本質が明らかになる」(同上:16)。余談とはいえ、重要な箇所である。大地と天空という対にしても、それは言えるはずである。四方界をなす大地と天空、神的な者たちと死すべき者たちという対でいえば、その「と」ということで言わんとしていることが、こういった差異とか同一ということである、ということになるだろうか。 

 

許されるだろうか、人生が苦役に満ちていれば、 

人は、天を見上げて言うのを、 

私もまたそうありたいのだ、と。そのとおり。 

 

「苦役」が「功績」に、「詩人のように」が「天を見上げて言う」に対応している。「見上げるということは、天と地の間なるものを端から端まで測りとおすことである。この間なるものが、人間の住まうために授け与えられているのである」(同上:19)、とハイデガーはいう。ここで、「この地上に住まう」ことの問題、すなわち死ぬことの問題が天と地の「間なるもの」の問題として問われ直されることになる。そして、ハイデガーはこの天と地の「間なるもの」を天と地のほうから考えるのではなく、むしろ天と地を「間なるもの」のほうから考えるために、ディメンション(Dimension)なる概念を持ち出してくる。ここでは、「間なるもの」とは、大地と天空、といわれるときのその「と」にあたる、それとして事後的に明らかになったディメンションのことである。そして、ディメンションとは、単なる空間的な広がりのことではなく、その「と」をそもそも可能にする、あえていえば「『と』以前」のはたらきのことである。*2*3

 

「間なるもの」は「この地上に住む」ことの問題ないしは死ぬことの問題に関わっているが、それがディメンションに依拠しているならば、人間が住まうことにはディメンション=「あいだ」がそこに差しはさまれている、ということになる。そして、「天と地の間なるものを端から端まで測りとおすこと」とは「天上的なるものへ向かって自己を測る」(同上:20)ことであるから、「間なるもの」の問題は自己の問題に直結する。自己もまた、測り得る者として、すなわち「あいだ」に差しはさまれた者であるその限りにおいて、自己なのである。つまり、ディメンション=「あいだ」に差しはさまれつつ天上的なるものへ向かう、という仕方で「間なるもの」の問題ないしは自己の問題を問う限りにおいて、すなわち、そのような仕方で大地と天空、神的な者たちと死すべき者たちといわれるときのその「と」を問う限りにおいて、具体的には、詩を詠うことという一つの建てることを全うする限りにおいて、住まうこと、そして死ぬことが真に問題になってくるのである。

 

「天上的なるものへ向かって自己を測る」とき、この「間なるもの」の問題ないしは自己の問題に、神が「尺度」というかたちで接続されている。そして、「天と地の間なるものを端から端まで測りとおす」際の尺度にあたるのが神である、ということにもなる。ということは、「間なるもの」-神の問題に関わりつつ人間は住まうのであって、そしてその限りにおいて、自己はその本性に即して存在することができるのである。

 

さらに、自己の問題は「住まうことを地上の図へと具象化させること」(同上:21)、すなわち狭義の建てることにも関わっている。つまり、狭義の建てることとは他の違う建てることとしての詩を詠うこと、すなわちディメンション=「あいだ」に差しはさまれつつ天上的なるものへ向かうことが、自己の問題に関わっているだけではなく、それと同時に狭義の建てることにも関わっているのである。そしてそのようにして詩を詠うことによってはじめて、「住まうことが永続する」(同上:21)のであって、そして死ぬことができるのである。その意味で、「詩を詠うとは、ひとつの測ることなのである」(同上:22)。

 

話はそう単純ではないが、あえて図式化していえば、四方界をなす大地と天空、神的な者たちと死すべき者たちという対においては、「この地上に住む」ことの問題ないしは死ぬことの問題が、大地と天空に、自己の問題が、神的な者たちと死すべき者たちに対応しているということができるだろう。そしてこの二つの対が、「と」の場所において、ディメンション=「あいだ」に差しはさまれつつ、すなわち「間なるもの」-神の問題に関わりつつ詩を詠うという行為によって一体を成している、という仕掛けである。 

 

「詩を詠うことにおいては、尺度を取るということが行われる」(同上:22)。しかしその尺度とは何なのか。「天と地の間なるものを端から端まで測りとおす」際の尺度にあたるのが神である、と先にいったが、「神はヘルダーリンにとって、神であるものとして未知なのであり、だからこのような未知なるものとして神は詩人ヘルダーリンにとってまさに尺度なのである」(同上:24)。このとき、既知の尺度がまずあって、そこから測るのではなく、むしろ未知の尺度によって測る、ということになる。さらにいえば、「尺度の本質は、未知にとどまる神が神として天空を通して明らかとなるあり方にある」(同上:25)。つまり、神それ自体が尺度である、というよりかはむしろ、神が現れ出る「こと」が尺度なのである。 それはどのような「こと」なのか。

 

「未知にとどまる神は、自己を神であるものとして示しながら、未知にとどまるものとして現象しなければならない」(同上:24)から、「天空を通して神が現れるということは、隠れているものを覆いを外してわれわれに見えるようにすることであるが、しかし隠れているものをその隠された状態から白日のもとにさらして見えるようにするのではない。そうではなくただ隠れたものを隠れて見えないままに見守ることによって、見えるようにするのである。そうすることで未知の神は、未知なるものとして、天空の明らかさによって密かに現れ出る」(同上:25)のである。つまり、「神は現れないが、『現れない』という仕方で現れる」のであって、ここにヘルダーリン-ハイデガー流の否定神学的構造がある。*4否定神学的構造においては、神は現れないとしても、神は消失したのではなく、不在のままで人間に対して何らかの合図を出している、そしてその合図に耳を澄まして聴く限りにおいて人間は行為し、神の到来を待つ、という神と人間との関係が見られる。その意味で、詩人は、「全体的なるものに耳を澄まして聴きつつ尺度を受け取る」(同上:26)のである。大地と天空、神的な者たちと死すべき者たちという二つの対は、「と」の場所において、否定神学的構造に則って詩を詠う限りにおいて、一体を成し、そこではじめて「住まうことが永続する」(同上:21)のであって、そして死ぬことができるようになるのである。 

 

ここから、天空を通して現れる神とは、どのような「こと」なのか、と問われることになる。神とは何か、と問うのではない。このようにして外堀から埋めていくような問い方も、否定神学的構造に則ったものであるだろう。そのため、人間にとって慣れ親しんだものである天空に目を向け、天空とはどのような「こと」なのか、と問うことになる。 

 

ただ、人間にとって天空が慣れ親しんだものであるとしても、それは事態の半面にすぎない。「神にとって疎遠なるもの、それは天空の光景である。でもそれは人間にとっては慣れ親しんだものである」(同上:30)、といわれるように、天空は、四方界としての世界においては、神と人間という二者の有様に従って、二重性を帯びる。「天空を通して神が現れる」というのは、慣れ親しんだものとしての天空を通して神が現れる、ということではなく、疎遠なるものとしての天空を通して神が現れる、ということなのである。

 

そして、「詩人はこうしたわれわれに見慣れたさまざまな現象の中に、不可視なるものが寄り添い一体となっている疎遠なるものを呼び起こす」(同上:30f.)。つまり、詩を詠むこととは、単に慣れ親しんだものとしての天空を描写するだけではなく、慣れ親しんだものの中に疎遠なるものとしての天空という天空のもう一つの側面を捉えこみつつ、不可視なるものとしての神が疎遠なるものとしての天空と寄り添っていることを明らかにする、すなわち、神を「隠れて見えないままに見守ることによって、見えるようにする」(同上:25)行為なのである。したがって、天空においては、二重の否定神学的構造が見出されることになる。というのも、慣れ親しんだものとしての天空にとっては疎遠なるものとしての天空は隠れており、疎遠なるものとしての天空にとっては神は隠れているからである。

 

「このようなひとつとなった光景をとおして、神はわれわれに奇異な感じを抱かせる。この奇異な感じによって、神は神の不断の近みを知らしめる」(同上:32)のである。ここに、慣れ親しんだものとしての天空と疎遠なるものとしての天空という、「と」の場所において一体となった天空の有様が窺われるのではないだろうか。そして、この「と」の場所に、神が否定神学的に観取されるのではないだろうか。 

 

このような否定神学的構造に則って詩を詠む、という狭義の建てることとは他の違う建てることによってはじめて、「おのずから」住むことが可能になるのである。そのような場所から、狭義の建てることを真に建てることとして実現しなければならない、というのがハイデガーの最終的な立場なのである。

*1:その本来の有様が、「建てること・住むこと・考えること」で語られる橋とか家屋敷に顕れている。

*2:ディメンションは、木村敏のいう「あいだ」と構造の上ではほとんど同じものであろう。

*3:先取りにはなるが、「測るとは、天と地の両者を相互に向い合わせる間なるものを推し測ることである」(同上:21)から、大地と天空、といわれるときのその「と」を推し測ることで顕れてくるのが、ディメンションである、ということもできるだろう。つまり、ハイデガーは事後的に明らかになった「間なるもの」のほうから問うのであって、それ以前のディメンションのほうから問うのではない。

*4:それは、事後的に明らかになった「間なるもの」のほうから、そもそもそれを可能にするディメンションのほうへと探りを入れるその問い方とも通底しているはずである。