ハイデッガー『ツォリコーン・ゼミナール』(ゼミナール 1959年9月8日)

メダルト・ボス編『ハイデッガー ツォリコーン・ゼミナール』木村敏・村本詔司共訳、みすず書房、1991年。

 

引用

人間的実存(menschliches Existieren)はその本質根拠において、

1)決してどこかに事物的に存在している(vorhanden)対象ではなく、

2)それ自身の内で完結した対象でもない。

そうではなくて、「人間的実存は、「ただの〈ブロース〉」、視覚的にも触覚的にもとらえることのできない、彼に語りかけながら出会ってくるもの(das ihm sichzusprechende Begegnende)に向かって遂行されるもろもろの認取の可能性(Vernehmensmöglichkeiten)から成っている」(ハイデッガー 1991:3)。

 

人間的実存の根本体制(Grundverfassung)は、〈現にあること〉(Da-sein)あるいは〈世界内存在〉(In-der-Welt-sein)と呼ばれる。

 

〈現にあること〉の〈現〉(Da)というのは、見ている者の近くにある空間の場所である「そこ」を意味しているのではない。〈現にあること〉として実存するとは、「〈現にあること〉が「空け」られていること(Gelichtetheit)からもろもろの所与(Gegebenheiten)がそれに向かって語りかけてくるが、その意味指示性(Bedeutsamkeiten)を認取〈フェアネーメン〉しうることによってある領域を開けたままにしておく(Offenhalten)」(同上:3)ことである。

「人間の〈現にあること〉は、認取しうることの領域として、決して単に事物的に存在する〈フォアハンデン〉対象ではない。反対にそれはそもそも決して、もともと決していかなる場合であろうとも、対象化すべき何かではない」(同上:3)。

 

読解

1)人間的実存、人間的(menschlich)に実存する〈こと〉(existieren)は、〈もの〉ではなくあくまでも〈こと〉である。また、それは、「視覚的にも触覚的にもとらえることのできない、彼に語りかけながら出会ってくるもの」とか「もろもろの所与」と呼ばれているもの*1のほう〈から〉捉えられなければならない。2)その意味で、人間的実存はカプセルのように自己完結した輪郭をもつものではない。「もろもろの所与」のほう〈から〉捉えられる限りは、人間的実存は自己完結することがないのである。

そしてそこ〈から〉、「彼に語りかけながら出会ってくるものに向かって遂行されるもろもろの認取の可能性」とか「意味指示性を認取しうること」というのはどういったことなのか考えられなければならない。このようにして認取しうるのは、人間的実存がその根本的なあり方において、「空け」られているからである。「空け」られているその限りにおいて(Offenhalten)、認取しうるということが言われ、人間的実存ということが言われるのである。「空け」られていること(Gelichtetheit)というのは、ドイツ語から考えると割合わかりやすい。Gelichtetは動詞lichtenの過去分詞形である。lichtenには「間伐する」という意味があって、その名詞形であるLichtungは「林間の空き地」という意味である。「空け」られている(Gelichtetheit)というのは、Lichtung(林間の空き地)に「もろもろの所与」がLicht(光)のように差し込んでくる、というようなイメージだろうか。

*1:これらも〈もの〉としてではなく、「意味指示性」という何かを意味している〈こと〉として捉えられている。「ただの〈ブロース〉」というのは対象化していないという意味だろう。