ハイデッガー『ツォリコーン・ゼミナール』(ゼミナール 1964年1月24, 28日)

メダルト・ボス編『ハイデッガー ツォリコーン・ゼミナール』木村敏・村本詔司共訳、みすず書房、1991年。

 

引用

《存在(Sein)は、明らかに(offenbar)、実在的(real)な述語(Prädikat)ではない》(カント)

 

「real(実在的)は、〔……〕res(事物)から由来していることに応じて、sachhaltig(事に即して)、つまり、事物において見出しうるもの(an der Sache Vorfindbares)を意味します。たとえばテーブルの実在的実存的(レアール)な述語とは〔……〕丸い、固い、重いなどです」(ハイデッガー 1991:5)。

real(実在的)に対して、wirklich(現実)やunwirklich(非現実)は、現実(wirklich)に存在しているか、あるいはただ表象されているだけなのか、ということに関わっている。「存在は〔……〕テーブルにおける実在的な何かとして見つけ出すことができません」(同上:5)。

明らか(offenbar)というのは、その意味を展開すれば、offenkundig(公然と)とかevident(明白に)ということである。「evidentは、evideri=sich sehen lassen(自らを見させる)から来ており、ギリシャ語では、エナルゲースἐναργής、つまりそれ自身から自らを示しながら(sich von ihm selbst her zeigend)輝きつつ現れる(leuchtend scheinen)ことになります」(同上:5f.)。

「したがってカントによれば、存在が実在的な述語ではないということは明らかであって、それは、この「実在的述語ではないこと」(Kein-reales-Pradikat-sein)が純粋に受け止められ、受け入れられ(angenommen)ねばならないという意味なのです」(同上:6)。

 

 

読解

ある物が丸いとか固いとか重いということについてなにか言われるときには、物のほうに焦点が定められており、その意味で「事(ないしは物)(Sache)に即して」丸いとか固いとか重いということが言われる。その一方で、存在(Sein)、ないしは存在することは、ものではなくてあくまでもことである。つまり、ある物が存在することについてなにか言われるときには、物のほうにではなく、存在することのほうに焦点が定められている。それゆえ、存在することを物のほうから見つけ出すことはできない。ことにしても、存在することというのはある意味では第一義的なことであるということができよう。

存在することに関わるwirklichについてもう少しみれば、wirklichの動詞形であるwirkenは英語でいうところのworkであって、行為的ないしはこと的な意味合いが強い。そして、wirklichは名詞workのラテン語形であるactioに由来するactualという形容詞に相当する。言ってみれば、ことというのは、さしあたってはactualの名詞形であるactuality、ドイツ語に直せばwirklichkeitのことなのである。存在することは、兎にも角にも行為的なこととしてみなければならないのである。この行為的側面が、次のleuchtenという言葉の使用法に関わってくる。

明らかに(offenbar)という言葉を拡大解釈すれば、存在が実在的な述語ではないということは、こちらから明らかにするようなことではなく、存在が実在的な述語ではないということそれ自体のほうから「おのずから」現れてくることである。この「おのずから」ということがleuchten(光る、輝く)という言葉の意味である。Lichtung(林間の空き地)に「もろもろの所与」がLicht(光)のように差し込んでくる、というようなイメージがここにも見出される。この「おのずから」差し込む光のイメージによって、存在することの行為的ないしはこと的な有様が表現されているのである。

「実在的述語ではないこと」が受け入れられ(angenommen)ねばならない、といわれるときのそのAnnahme(受け入れ)というのが、「存在が実在的な述語ではないということ」が現れてくるその様態としての「おのずから」に呼応する人間的実存のあり方である。以下Annahmeの複数の意味の違いが詳述される。

 

 

引用

「Annehmenの二つの様式(仮定することと受容すること)」(同上:7)。

a 仮定することとは、「それ自身与えられておらず、与えることのできない何かを条件として設定すること、何かをある対象の「下に置く(unterstellen)」こと」(同上:6)である。

仮定としてのAnnahmeによって、ある事象がかくかくしかじかに説明される、どのように発生するかが証明(beweisen)される。

b 受容することとは、「ある与えられたものをそのまま受け取ること(Hinnahme einer Gabe)、あることに対して自らを開けておくこと(Sich-offen-halten für eie Sache)」(同上:6)である。

受容としてのAnnahmeによって、「それ自身から自らを示すもの、公然たるもの(das Offenkundige)を、そのまま受け取ること(Hinnehmen)、端的に認取すること(schlechthinniges Vernehmen)」(同上:6)がなされる。

「公然たるものというのは、たとえばわたしたちの前にあるテーブルの存在ですが、それは仮定を通して証明することができません。〔……〕受け取ることにおいて認取されたものは、何の証明も必要としません。それはそれ自身を証示(sich ausweisen)します。このようにして認取されたものは、それ自身、それに関する陳述の基盤となる根底(Boden)、根拠(Grund)です。これは、言われたことが端的におのずと分かる〔それ自身を証示する〕ということを意味します。そこへわたしたちが到達するのは、端的に指摘すること(Hinweisen)によってです」(同上:6f.)

「どこでわたしたちが証明を要求せねばならず、証明を探し求め、どこで何の証明も要らず、それにもかかわらずもっとも高度な種類の根拠づけ(Begründung)を見出すかは、厳密に区別されなければなりません」(同上:7)。

「いかなる仮定も、つねにすでに受容の一定の様式に基づいています。何かあるものの現存性(Anwesenheit)が受容されていてはじめて、その下にいろいろな仮定を立てることができるのです」(同上:7)。

 

 

読解

「実在的述語ではないこと」が受け入れられ(angenommen)ねばならない、といわれるときのそのAnnahme(受け入れ)の二つの様式のうちでも、bの受容としてのAnnahmeのほうが重要視されている。「公然たるものを端的に認取する」といわれるときの公然たるものというのは、ここでは「存在が実在的述語ではないこと」であり、テーブルの存在ないしはテーブルが存在することである。人間的実存のほうに引きつけてみるならば、「何かあるものの現存性(Anwesenheit)」ないしは何かあるものに居合わせていることになる。あくまでもことである。前の言葉でいえばこと的な「もろもろの所与」である。人間的実存の様態である端的に認取することというのは、自らを開けておくこと(Sich-offen-halten)であり、そのまま受け取ること(Hinnehmen) である。前の言葉でいえば現にあることの「空け」を開けたままにしておくこと(Offenhalten)である。そういった公然たるものはそれ自身を証示しているため、人間的実存にとっては、「おのずから」の相のもとで認取される(べきものである)。その公然たるものについての実在的な陳述や証明(たとえばそのテーブルが丸いとか固いとか重いと言うこと)は、そこから為されなければならない。その意味で、証明がひとつの根拠であるならば、公然たるものはいわば根拠の根拠である。陳述されている当のものは、陳述ないしは証明されることによって際立つのではない。それどころか、そもそも証明を必要としない。人間的実存にとっては、証明の対象ではなく、それはいわば陳述以前の直指(Hinweisen)の対象である。そしてこの直指が、「もっとも高度な種類の根拠づけ(Begründung)を見出す」ことなのである。根拠の根拠である受容としてのAnnahmeに基づいて、仮定としてのAnnahmeは可能になる。

 

 

引用

「そのまま受け取られるものは、現れるもの(das Erscheinende)、つまり現象(Phänomen)です。二種類の現象があります。

a 知覚可能な、存在者として存在している諸現象、すなわち存在者的(ontisch)な諸現象、たとえば、テーブル。

b 感覚的に知覚可能でない諸現象、たとえば何かが存在すること、すなわち存在論的(ontologisch)な諸現象。

知覚可能でない存在論的現象は、必然的にあらゆる知覚可能な現象に先だってあらかじめ(zuvor)、知覚可能な現象のために現れています。わたしたちは、テーブルをこのテーブルとかあのテーブルとして知覚する前に、現存する(アンヴェーゼン)ということのような何ごとかがある(es gibt)ということを、すでにあらかじめ認取しているはずです」(ハイデッガー1991:8)。

 

「二種類の明証性(エヴィデンツ)〔……〕

1 わたしたちは、存在(existieren)しているテーブルを「見て(sehen)います」。これは、存在者的明証性(オンティッシェ・エヴィデンツ)です。

2 わたしたちは、テーブルの存在(エクシスティーレン)することがテーブルの性質ではないこと、しかし、わたしたちがテーブルは存在する(ist)と言うときにはテーブルの存在(エクシスティーレン)のことを言っているということも「見てとって(sehen)います」。これは存在論的明証性(オントローギッシェ・エヴィデンツ)です」(同上:9)。

 

《存在は物の設定、或は物の或る規定の設定(Position)にほかならない》(カント)

 

存在は「どのような述語なのでしょうか。それは「物の設定(ポジツィオーン)にほかならない」のであり、つまりはある所与の被措定性〔置かれていること〕(Gesetzheit)なのです」(同上:9)。

「設定とは、わたしが設定(ゼッツェン)するということです。わたし、つまり人間がここでは活動を始めるのです。どういうときにかというと、存在するテーブルを知覚し、見るときにです」(同上:9)。届ける、出くわす、制作する、などの活動。

「自らに本来固有の姿において存在するという仕方で、テーブルは使用において、つまりは人間がそれと関わることにおいて自らを示します。わたしたちはテーブルを用具として存在する姿で見るのです」(同上:10)。

 

 

読解

そのまま受け取られる「もろもろの所与」ないしは「公然たるもの」はここでは「現象」と呼ばれている。存在者的な諸現象というのは、ものを指している。「事物において見出しうる」実在的(real)なこと (丸いとか固いとか重いということ)も、こちら側に属しているはずである。存在論的な諸現象というのは、現実的(wirklich)なこと、すなわち何かが存在することを指している。この二つの現象の違いは、先の物のほうに焦点が定められているか、存在することのほうに焦点が定められているかの違いに即している。

人間的実存にとっては存在論的な諸現象のほうが先である。つまり、テーブルが丸いとか固いとか重いということより先に、テーブルに居合わせている(anwesen)とでもいうべきことが起こっているのである。このように、存在論的な諸現象は、「現存する(アンヴェーゼン)ということのような何ごとかがある(es gibt)」といわれるようなかたちで、人間的実存の側からではなく「もろもろの所与」のほうから、何だかよくわからないが「語りかけながら出会ってくる」(sichzusprechend begegnen)、というような類のものである。

二種類の現象の区別は「おのずから」現れる「もろもろの所与」のほうに注目した際の区別である。一方、二種類の明証性(Evidenz)の区別は、evideri=sich sehen lassenという「もろもろの所与」の様態としての「おのずから」に呼応する人間的実存のあり方の区別である。ここでも、物のほうに焦点が定められているか、存在することのほうに焦点が定められているかの違いに即した区別が為されている。テーブルを知覚したりテーブルが丸いとか固いとか重いと判断したりすることとテーブルが存在するということを認取する(vernehmen)、ないしは洞察する(einsehen)こととのあいだには、そしてテーブルが丸いとか固いとか重いということとテーブルが存在するということとのあいだには決定的な位相差があるのである。

カントにおいては、存在することはどのようなこととして洞察されているのだろうか。拡大解釈すれば、カントにとっては、存在することと「設定(setzen)されていること」、ひいては「わたしが設定すること」とはひとつである。そして、「わたしが設定すること」というのは、テーブルに関する、届けるとか出くわすとか制作するなどといった「活動」のことである。このように、人間的実存においては、存在することは、活動の相の下で、ということは行為的ないしはこと的なあり方において受容されているのであって、aとbの現象の区別にしても、1と2の明証性の区別にしても、そこから為されなければならない。

行為のほうからテーブルが見られるとき、テーブルは自らに本来固有の姿において存在するという仕方で自らを示す、ないしは「おのずから」現れる。わたしたちは単なる事物的に存在している(vorhanden)対象ではなく、用具として存在する(zuhanden)テーブルを見るのである。

 

 

引用

「テーブルは空間を通り抜けてR先生に向かって自らを示しています。空間はしたがってテーブルが現れ出ることへと向かって透き通って(durchlässig)いるのです。空間は開け(offen)、空いている(frei)のです」(同上:10)。

「空間の空間性(Räumlichkeit)は、透過性(Durchlässigkeit)、開け(Offenheit)、空いていること(das Freie)の内に成立しています。これに対して、開けそれ自身は空間的なものではありません。それを通り抜けて何かが現れ、それなりのあり方で自らを示す、この通り抜け(Hindurch)こそ、開けているもの、空いているものです。この開けているもののなかにわたしたちは自らを見出しながら存在している(uns finden und uns befinden)のです」(同上:10)。「いつもすでにそことそして〔同時に〕そこにいる」(同上:10)。

「彼はこの空間の中に自らの存在を見出して(sich befinden)います。わたしたちはこの空間の内に逗留(aufhalten)しています。わたしたちはこれとかあれとかに留まる(halten)ことで空間に入りこんで(aufgehen)いるのです」(同上:11)。

 

 

読解

テーブルが「おのずから」現れることを「もろもろの所与」のほうから見るとき、「もろもろの所与」が現にあることの現(Da)に向かって「語りかけながら出会ってくる」(sichzusprechend begegnen)際の、その「現(Da)に向かって」ということに注目するならば、どうしても「もろもろの所与」のいわば「於いてある」場所である空間が問題になってくる。「もろもろの所与」のほうから見られた「現(Da)に向かって」ということは、空間のほうから見るならば、「空間を通り抜けて」、ということになる。

空間は無色透明の即自的なものではなく、透過性(Durchlässigkeit)、開け(Offenheit)、空いていること(das Freie)といった、それ自身は空間的なものではないものの空間を空間として成立させているようなある種のこと的なはたらきに基づいている。透過性(Durchlässigkeit)というのは何となくわかるが、開け(Offenheit)とか空いていること(das Freie)というのはまだどういったことなのかはよくわからない。「空け」られていること(Gelichtetheit)とは訳語からして何か違いがあるのか。これもまた「もろもろの所与」のほうに焦点が定められているか、人間的実存のほうに焦点が定められているかの違いに基づいているのか、そうではないのか。

それはいずれ明らかになることとして、通り抜け(Hindurch)とか開けているもの、空いているもの、というのは、「もの」というよりかはこと、ないしははたらきであろう。通り抜け(Hindurch)は空間に即して、「語りかけながら出会ってくる」(sichzusprechend begegnen)は「もろもろの所与」に即して、現にあることの「空け」を開けたままにしておくこと(Offenhalten)は人間的実存に即して、というように、同じ出来事であるにしてもそれを何に即して見るかによって言葉遣いが変わってくる。ここでは、通り抜け(Hindurch)も動詞的なある種のはたらきを内に込めつつ読まれるべきである。

わたしたちはそういったはたらきのなかに自らを見出しながら、何らかの気分によって色づけられつつ存在している(uns finden und uns befinden)。「いつもすでにそことそして〔同時に〕そこにいる」といわれるように、「ここ」と「そこ」にいる。もの的にみれば同時に二つの場所にいるわけであるから非合理この上ないが、行為的ないしはこと的に見るならば、そう言うしかないのである。現にあることの現(Da)と言うとき、「ここ」をhaltenという動詞で見、そして「そこ」をaufgehenという動詞で見ながら、この二つを同時にaufhaltenというかたちで見てしまわなければならない。これが、人間的実存にとっての、現にあることの「空け」を開けたままにしておくこと(Offenhalten)の内実である。